むかしのこと1

 小学生の頃、テニスクラブに通っていました。少しの素質と親の教育方針のためか、僕は選手コースに在籍しており、それはもうハードな練習を熱していました。眠い目を擦り、休みたい気持ちを抑えながら、週5日の練習に通う。それを続けられたのは、あの頃の僕がまだ純粋に可能性を信じていて、いつの日かこの練習が芽を出してプロに…といった想いを抱くことができたからでしょう。その想いの根源は、果たして「自分のことを信じていたから」なのか「世界のことを矮小に捉えていたから」なのかは不明です。たぶん、世界のことを矮小に捉えていたから、自分を信じることができたのだと思います。人間は、あまりに現実的で理論的な世界の構造に直面したとき、はじめて自身の矮小さを計算して「世界の果て」を作り出すのではないでしょうか。どこにでも行けると信じていたその世界が、実は僅かな、精一杯手を伸ばしてスライドさせて届くか届かないか程度の範囲しか触れることのできないモノだと知るのは、もう少し先のことです。ひとことでいえば、それは「挫折」なのでしょうけれど、その話をするのは今度にします。

 

 テニスクラブには同世代の金の卵たちがわんさかといて(実際には皆プロになることなどなかったので偽者の卵だったのですが)、その一人にTがいました。丸顔で少し太めの体型をした彼は、見た目どおりのパワーヒッターでした。僕の世代では2番手で、パワーよりもテクニカルなテニスをするメンバーの多かった我がテニスクラブでは貴重な存在でした。彼の性格もまた(一見)見た目どおりで、図太い神経・茶目っ気のある態度とでもいいましょうか。そしてその裏に熱と情が詰まっているような。昔のガキ大将のような少年だったと思います。同じ練習クラスだったこともあり、彼には色々と助けてもらった記憶があります。

 

 しかし、ガキ大将のような少年が、コーチやメンバーの両親といった大人たちに「いい目」で見られることはありませんでした。その結果、Tは些細な言動やなんてことのない態度を叱責されていましたし、無実とも理不尽とも、彼が非難されることが「普通」でした。「客観的に」「教育として」問題のある状況だったと思います。自業自得なのかもしれません。周りの子供たちがいい子過ぎたこともあるかもしれません。彼は少々の悪戯を起こす少年でしたし、大人が目を付けるだけの要因はあったと思います。思索の枠入れや先入観といったモノは大変恐ろしく、一度目を付けたのならば彼のあらゆる挙動が、大人の中では「悪態」へと変化します。思えば常に隅に立たされていたような気がしますし、怒声を浴びることが彼の務めだったように思います。

 

 これが学校であったのならば問題となりますが、伝統ある僕のテニスクラブは、大変ストイックな風潮でした。「自己の鍛錬こそが全て」とテニス道を求道するメンバーたちは、コーチに対して尊敬と畏怖の念を抱いていましたし、メンバーの両親たちも浮付いた態度を取っているように見えるTへの視線は冷たいものがありました。

 彼は、メンバーからも見放されることが多くなり、力なきガキ大将と化していました。馬鹿にされ、下品な嘲笑を向けられていたことも多かった気がします。あまりに悲惨な状況だったと思います。一日中怒鳴られていたこともありましたし。最早そのような有様が一種のルーティンと化していた気もします。

 

 しかし、Tは常に笑顔を浮かべていました。そんなことが何だ、と。鈍感というよりは、強い。そういう笑みだったと思います。誰よりも怒声を浴びた彼は、しかし誰よりも風を切って歩いていました。誰よりも力の乗ったショットをコートに叩き付けていました。

 

 いつかの帰り道に、僕はTを問い詰めました。本当はどう思っているのか、大丈夫なのか、辞めたくならないのか。彼の本心を聞くこと。彼と向き合うだけの強さを持つこと。それが僕の使命だと思いました。「他の人とは一緒になりたくない」というチープな自己保守でしたし、行動の矛先は全て自分に向いていたと思います。醜いですが、問いたかったのです。彼はその笑顔の仮面を一切崩すことはなく、「そんなこと、お前が気にすんな」といった発言をした記憶があります。そのニュアンスは、どちらかといえば「そんな些細なことを、お前が心配するな」というモノに取れました。世界のあらゆる理不尽を蹴散らすかのような声色でした。

 

 

 Tの発言や行動には何の前兆もありませんでした。いや、彼の置かれていた状況そのものが前兆だったのかもしれません。彼は唐突にテニスクラブを辞めました。僕もメンバーも、コーチですら彼が辞めることを、彼の口からは聞きませんでした。無機質な事務員が、無感情で機械的に、退会の手続きをしたのだと思います。連絡先も住所も知らない。ただテニスクラブという空間のみで物を共有した彼と、二度と会うことはありませんでした。その後、大会の舞台で目にすることもありませんでした。(後にtwitterを発見しますけど。相変わらずテニスクラブの近くに住んでいる様子。)

 

 たぶん、Tは他の誰よりもテニスが好きでした。ラケットにも詳しかったし、誰も知らないようなプロ選手のことまで知っていました。愛と情熱が乗った彼のショットが好きでした。彼がテニスをやめる姿を想像することができませんでした。受験でも引越しでもない彼が辞めた理由など、執拗な大人からの嫌がらせ以外に何があるでしょう。

 

 あの時、Tはどのような想いで、「そんなこと、お前が気にすんな」と言ったのでしょうか。精一杯勇気を振り絞ってテニスクラブに通っていたのかもしれないし、その想いを隠すために必死で笑顔を貼り付けていたのかもしれない。たった小学生の器で、色々な物に耐えて、強がっていたのだと思います。

 彼は鈍感でも強くもなく、普通の少年でした。ひとと同じぐらい何かを敏感に感じて、ひとと同じような感性を持っていて、同じぐらい弱かったのだと思います。僕の過ちは、彼自身を強く見積もったことです。どんな人でも、思っている以上に世界を敏感に感じているのだと思います。

 

 Tがテニスへ向けていた愛、それを守る立場であるはずの大人が摘んだ事実。

ひとひとりの中には、愛も悲しみも、生々しい感情が湯水のように溢れていること。その感情を、僕は決死の思いで尊重したいのです。

「一人一人の思いを僕らはどこかに残せるだろうか。ひとつの思いを僕らはどれだけ守れるだろうか」。色々なひとの色々な感情を踏まずに殺さずに生きたい。

 

レストー夫人 考察的な

三島さん、「人間」のことが好きなんだろうなぁと。

 

 端的にまとめると、我々は衣装係の石上くんいうところの「模型」であり、また同時に「生きた人間」である、というお話。

 

・模型とは

 社会において我々は、あらゆる役を演じなくてはならない。たとえば「姉」という立場になったのなら、「姉」という「役柄」に添った行動を取ることを無意識的に強要される。「学級委員」でも「クラスのムードメーカー」でもなんでもいい。我々は何かしらの「役柄」を演じているといった側面がある。更には、この「役柄」によって、性格や感性が定められていくことがあるだろう。

 

 もしかしたら、本人の持つ本質・自然な姿は、こういった役柄とは少し異なった姿であるのかもしれない。だが、無意識的にも、社会を生きる上での目印(作中の表現を使うと「目もり」)として存在している、こうした「役柄」に自らを収めるように行動し、そして実際にその性質へと収まっていく。

 つまり我々は、何かしらの目印を演じているだけの模型に過ぎないのである。

 

 志野さんという人物は、特殊な教育によって、あらゆる物語に登場するような「女の子らしい女の子」としてしか生きられない。彼女の自然な本質は消失し、絵本にでてくような女の子こそが彼女の生きる上での「目印」なのである。そんな志野さんを「いろんな女の子の寄せ集めの模型」だと表現する石上くん。

 

・生きた人間

 我々は模型。何らかの目印に合わせ、自然な本質を変形させることで行動している側面がある。そのため、我々が抱く感情や趣向といったモノも、もしかしたら初めから決められていたような、プログラムされているような、構造の結果生まれるような…あまりにつまらないモノかもしれない。同じ「役」のひとと何ら差別化できないのかもしれないし、原初的な本質とは異なった歪なモノなのかもしれない。

 しかし、それがどんなに規定されたモノであったとしても、我々が抱く感情は(「感じる主体」にとっては)何の偽りもないホンモノであって、他に代替することのできない、唯一無二の意識だ。とてもあたたかくて、脈を打っていて、生気に溢れている。感じることの美。想うことの美。

 そして、感情を抱くこと自体が「生きた人間」としての証左である。たとえ作られた個であれ、不自然な姿であれ、我々は日々の生活で数え切れないほどの感情とともに、色鮮やかなリアルを送る人間なのだ。

 

 

 ただ物語の寄せあつめ的な女の子を演じるだけの「模型」であったはずの志野さんが、あらゆる感情を抱いていたこと。志野さんは模型であり、同時に正真正銘の生きた「女の子」であった。

 恐らく我々も、何かを演じているに過ぎないのだろうし、なにかの模型に過ぎないのだろう。それでも我々は、正真正銘の「人間」なのである。

 

「でもある時、なぜか意味の見えない部品があった。正確にはひとつの部品に、2つの意味が見えるんだ。何日もかけてやっとそれが完成した時、すごくびっくりしたよ。それはロボットと飛行機の2つの形を持つ模型だったんだ。

 レストー夫人も同じだったよ。ひとつひとつの部品に2つの意味があるんだ。レストー夫人はいろんな女の子の寄せ集めの怪獣なんかじゃなくて、もうひとつの形があったんだよ。女の子だよ。」

 

そして、今日も、劇は続く。(たぶん現実世界で)

おもひでぽろぽろ 考察

 

ですます調の方が本作に合っている気がしますね。敬体文でいきます。

 

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  女性のためにあるような映画ですよね。

  まぁ色々と主旨・主題はあるのですけど、端的に「社会で構築される”女子性”の影響を受けた女性」がそういった生き様からの脱却を果たす側面が強いように見受けられます。

なので、本作の特徴をフレーズで捉えると、「成長」でも「子供と大人の差異」でもなくて、「女性と社会」なのだと思いますね。

 

 さて、まずは本作における「ゴール」とは何だったのかを捉えていきましょう。それは結構わかりやすく、「いい子であることよって作り上げてきた日常からの脱却」という形で現れています。

 というのも、

私 子供の頃からそんなだったの

ただ いい子ぶってただけ

今もそう

 というセリフにあるように、子供の頃から、タエ子はなんとなく・流れのように「いい子」として生きてきて、それに対して僅かな疑問も抱いていなかったわけです。しかし、結婚を提案される一件でこの「いい子」性を見透かされ、「はて自分の今までの行動とは・人生とは」と暗雲立ち込める空の下、振り返ります。そういった過程を経て、最後に嘘偽りのない「本心」「欲」を基軸にした決断、「作られた自分」という表層的なパッケージに留まらない決断をするのです。つまりは、無意識的に「いい子」の自分を演じる中で作り出してきた現実の日々を捨てて、自分の意思を露にした上でちょっと先の未来を選択することがゴールなわけです。

 

 では、この「いい子」性はどのようにして現れてしまったものなのでしょう。この点を考慮する上で、重要となってくる要素が本作の「女子性」です。この記事での「女子性」というのは、「クラスにしろ会社にしろ、男性を含めた人が集まる社会のなかで女性が発することになるであろうキャラクター性」のことを指したいと思います。つまり、ジェンダー的な先入観の強い、旧時代的な思想が元となりますが、簡単に言えば「女子は男子より明るい」みたいなモノのことです。

 

 この作品において、「集団における女子性」が特に発揮されるのは、子供編でしょう。小学5年時点における男女差が特徴的であり、これは原作者が当時を生きた女性だからなのでしょう)当時の男女関係を恐らくリアルに描くことに成功しています。

 単純な特徴としては、女子が男子よりも断然大人びていますよね。小学5年生という設定が絶妙でして、女子が明らかに男子の発達を上回る時期なわけです。精神的な意において、「本来は女子は1学年上の男子と同級にすべき」みたいな論もありますよね。こうした中で、「これだから男子は…」と女子は溜息を吐くわけです。つまりは女子の方が「大人」に近いわけですよ。

 本作を見ればすぐにわかります。5年生の男子は非常にくだらないんですよ、「廊下を走る議題」のシーンなんかは特に象徴的で、論理的思考力を持った谷サンと、騒ぐ男子たち。そういった構図がわかりやすく表れている。恋愛という意味でも、はやく発達する女子は、やたらと興味深々なわけで。広田くんを茶化す存在としての「男子」は一貫して描かれないわけです。

 また、当然肉体面における差も生じます。「第二児性徴」は女子のほうが早いことが一般的ですね。女子が女性にと分化をはじめる分かりやすい時期としての「小5」という観点があって、女子は生理がはじまる。簡単にいえば精神的にも肉体的にも女子は男子に比べ断然「大人」なわけです。掃除をしない男子に対して「ちょっと男子ー」と怒りたてるような文化の背景には、こういった流れがありますよね。

 それは同時に、大人からみれば、「まだまだ子供で、イタズラもすればクダラナイことで騒ぎ出すような男子」と「大人らしい弁えを一応身に着けた女子」として映る。つまり表面的に捉えれば、女子の方が理解のある「いい子」として映るわけです。女子はこうした「いい子」たる枠を早い時期に作り出して、なんとなくその枠組みのなかで、「いいふうに思われて」「社交的な存在として」育っていく。これは大まかなで曖昧なイメージ像を抜き出したにすぎない、なんとも雑な「女性像」ですし、例外を挙げれば尽きないのですけど、一応これがおもひでぽろぽろに垣間見える「女子性」です。それは、

仕事でも遊びでも

私たちは男の子たちより明るく

元気がよかった

私たちは飛び立ったつもりになっていた

しかし今 思えば

あれはただ無我夢中で羽を

動かしていただけだったのかもしれない

というセリフに象徴されています。このセリフ、一人称は「私」でもよかったと思うのですね。それでもあえて、「私たち」と表現したのです。さらにいえば、「仕事も」とあることから、小学5年生の頃のメンバーを指して「私たち」と表現したのではなく、タエ子が小学校~高校、社会人として出会ってきた女子たちを含めて「私たち」と表現した、と考えるのが妥当でしょう。つまりは、冒頭におけるタエ子の上司とのやり取りに象徴されるように、「なんとなく私たち女性は男子よりも明るくて、(飛び立ったつもりになるように)大人になった気でいた」といった意味と捉えることができます。少し過大に解釈してみましょう。「明るく」というのは、冒頭のように、上司の冗談もそれなりに受け流せるような、男子よりも「気の利いた性質」、悪くいえば「大人にとって受けのいい性質」を含んでおり、つまり表面的には「いい子」な訳です。「いい子」であったからこそ、大人として羽ばたいた気になれていたわけですね。

  その上で、「しかしそれは本当に(蝶になって)羽ばたいた(つまりは「大人」になった)のだろうか。もしかすれば、ただ大人になった気がしているだけで、羽をバタバタ動かしていただけなのかもしれない」という心理に陥るわけです。

 

 作品タイトルも誰のマンガだったかも思い出せないのですけど、「男の子はわからない」と感じる女性の心理が描かれていたものがありました。「男の子は、適当なように見えて、知らないうちに勉強に一心になって、いつのまにか高みにいて、はるか先を進んでる」。こういった内容だった気がしますね。これは、おもひでぽろぽろの男女間の成長差を補完し得ると思いますね。タエ子は自身が吐露するように、別にいまの仕事が好きなわけでもなくて「なんとなく」就いた職で。特に明確な目的もなく、それでも上司には冒頭でも好意的な態度を取っていて、一応の順調さがあって、「いい子」で。一方トシオは、会社をやめて、やりたいコトを始めていて、目的も意思もあるわけです。こういった背景も含めて、「私たちはただ羽をバタバタ動かしていただけなのかもしれない」というセリフを捉えてみると面白いですね。

 

  さてタエ子が「いい子」たる所以として、本作の女子性・女性観が挙げられる、というのが上記の話です。しかし、それだけでなくタエ子が「いい子」に捉われた原因としては「家族関係」も挙げられるでしょう。

 

  というのも、家族関係においても本作は昭和の関係性をよく汲み取っていますよね。家父長で、母は厳しく、姉妹間の権力差も激しく…と。こうした構造における家族社会のなかで、タエ子は末っ子ということもあり、様々な「我慢」を強いられます。こうした要素が、タエ子が女子社会においても人一倍「いい子」であった、「いい子」であろうとした要因でしょう。

 

  そのような呪縛を振り返って、つまりは「実はあの頃からなにも変わらず、羽ばたいていない」リアルと直面して、これからの人生を考えた結果、「トシオの元に戻る」という決断を下すのです。それは、何からの影響も受けない、シンプルで、自分の意思を尊重した選択なのです。

 子供の頃から、学校であれ家であれ、自身の意思を無意識的に控え、「いい子」で在り続けたタエ子。大人になれどその性質からの脱却はできず、本心が何処にあるのかもわからずに歩んできたわけです。無意識下での「いい子」の選択は、「自由」を犠牲にしたものでした。タエ子の日常は、「いい子」である自分が「いい子」としての決定に基づいて作り出した日常に過ぎないのです。だからこそ、特に仕事において、何となくは充実していたけれど、一方で生き甲斐を感じられることはなかったのでしょう。このような状況を跳ね除けて下した決断こそが、「トシオに会うために田舎に戻る」といったものになるわけです。このまま東京で暮らしても、恐らく今までと何ら変わらぬ「いい子」性の枠の中で、なんとなく羽をバタバタと動かしながら生活をすることでしょう。そういった未来を自身の意思で(電車の描写のごとく)乗り換える決断が到達点なのです。過去の自分との別れですね。

  簡潔に表現すれば、「いい子」であることを無意識的に演じるうちに「自由」を犠牲にしてきた主人公・タエ子が、その「いい子としての意思で''なんとなく''作り上げてきた日常」に別れを告げる話なのではないでしょうか。

 

  さて以上がラストシーンまでの、タエ子自身の人生観と絡めた考察ですね。昭和の男女観として、特に女性はこういったイメージだよねという漠然とした「女子性」があり(実際にはそれが真実であるにせよないにせよ)、それを1人のキャラクターとして擬人化して描いた作品がおもひでぽろぽろです。そして、その性質へのある意味皮肉的ともいえる批判(ただ羽をバタバタさせているだけ)と脱却を描き切ったというのが個人的な解釈ですね。

  まぁそれはそうと、これはナウシカでもなく、キキでもなく、サンでもない。女子社会という「多数」における1人に過ぎなかったタエ子だからこそ紡げるであろうお話であり、同時に、「あの頃を生きたマジョリティーのあなた」へ向けられている作品ですね。耳をすませばよりも「カントリー・ロード」を感じるのではないかなと思います。

2011年のアニソンはよい

2011年のアニソンはよいのだ。

そもそもアニメが豊作なのだが、アニソンもよい。

数多くの曲の中からトップ10を選んだのでリンクを貼っていこうと思う。即ち、手抜き記事だ。なんて書くのが楽なんだ。

 

10位 daydream syndrome(夢喰いメリー)

 

9位 不完全燃焼(神様ドォルズ)

 

8位 stone cold(セイクリッドセブン)

 

7位 endless story(C3)

 

6位 os-宇宙人(電波女と青春男)

 

5位 sky's the limit(persona4)

 

4位 空蝉(いつか天使の黒ウサギ)

 

3位 for you(放浪息子)

 

2位 星風のホロスコープ(星空へ架かる橋)

 

1位 ノルニル(輪るピングドラム)

 

どの曲も嫌なアノコロを思いだすなぁ…好きだけど

 

 

就活たすけてトーク

  ながい春休み。何をやるわけでもなく、ただ虚しくベッドに横たわる日々。

 

  リアルアカウントをみたくない。3月になり、周囲は就活生のコスプレをはじめた。説明会に行ってきただの、エントリーシートがどうだの、そんな話題が蔓延していた。僕はといえば、何もしていない。無論、アテもなければ具体的なビジョンもない。曖昧な展望はあれど、その職種に就くにはいつどこへ行けばいいのかも分からないほど、何の輪郭も見えていない。つまりはただの怠け者である。厭世観を気取っているぶんタチが悪い。

 

  熱意が全く湧いてこない。周囲の人々は湧いてこない熱意を無理に湧かせているだけなのかもしれないけれど、熱意を湧かせる熱意すら湧かないのだから仕方ない。
  湧いてくるのは、不安である。このままではヤバいことになる、落ちこぼれてしまう、底辺労働の業務員になってしまう、刺身のパックにお花をいれる人になってしまう…という不安。しかし不安は熱意に変化しない。感情を別のエネルギーに変換するのはむずかしい。不安があれど、体を動かす気力は生まれない。

 

  「周囲はなんか色々やってるけど、オレは実力があるから何もしないでいいんだよ!」みたいな、過度な自己信仰心があればどんなにかよかっただろう。自分という名の神に縋れる人になりたかった。根拠のない自信、圧倒的幸福感。
  僕はどうだ?モチベーションが湧かない癖に、所持してしまったのは、異常に高いネガティヴ性。最悪の組み合わせである。

 

  ところで、人間の非合理的な部分にはおもしろいモノがある。心理テストで「物事を冷静に考えて行動する」か「あまり考えず感情に従って行動する」か、という2択があった。
  僕はといえば、とりあえず物事を考える。後先を計算して、こうやっておくべきだと理解して、やれなかった時の惨状も把握して、最悪のケースも想定して、明確に行動する項目も完成する。けれど、やりたくない。やりたくなるだけの熱意と気力が湧かない。湧かすことができない。アニメをみたいので、みはじめる。これは心理テスト的にはどちらを選ぶべきなのか。物事を冷静に考え、感情に従って行動している。
  企業情報ははやめに見ておいた方がいいし、企業説明会にも行ってエントリーする企業を決めておいた方がいい。僕が今やるべき最低限のことは、狙う職種の募集要項を漁って、書類の提出期限を確認して、必要によってはシートを書き始めることだ。勿論、やれない。
  心理テストの2択で選べるほど人間って単純じゃない。非合理的な面がある。(まぁ心理テストはより強い方を選べということなのだろうけど)

 

  あとこの件で思い出した話は、とある不登校のひとの体験談で、「夏休みや冬休みはたとえ不登校だったとしても気が楽。学校がある季節は気が重い」と、まぁ当たり前だろうがそんなやつだ。

  虐めみたいなのが原因のやつはさておき、不登校のほうが気力を費やしているのだろうと思う。みんな学校になんて行きたくない。けれど学校に行くために費やす気力のほうが、わざわざ学校に行かないことを選択する(=他人の歩む安心なレールを自ら外れる行為を選択する)のに費やす気力の量よりも、少量で済む。 学校に行ったほうが楽なので、学校に向かう。そんな気がしている。

  僕の就活の話も同様で、もしかしたら就活をするよりも、就活をしていない今の方が気力を費やしているのかもしれない。

  とりあえず、就活を始めたほうがよいのだろう。熱意が湧かない。