海がきこえる感想、殴り書き

 「海がきこえる」という作品がある。
スタジオジブリのなかではマイナーなほうで、映画でもなくて、宮崎駿でも高畑勲でもない。
  僕は子供の頃にみたことがあって、なんとなく「よかった」という記憶だけはあったのだけど、たぶん全く作中の意味は理解していなかっただろう。

 

  さて、先日ふとしたきっかけで「海がきこえる」を再視聴することになった。
  一見の感想としては、まず率直に「地味」だった。何もかもが一見あっさりしていて、一見なにもなくて、一見起伏がなくて、ゆったりしていた。
  ふーん、と思いながら見終わった本作。なのに、どうしてか、いつのまにか、僕の心につよい衝撃を与えていて、気付けば虜になっていたのである。

   振り返れば振り返るほど、実は激しくて、熱くて、濃くて、青い作品だったと気付く。そして何よりも、懐かしかった。

 

  どうして懐かしいのか。彼らの活力。情熱。威力…。あぁわかった、これは僕だ…。紛れもなく僕のことを描いている。懐かしさの所以は、自分の青春時代へ投影できるからだ。

 


(以下、自分語り)
  中高時代の僕は、活力の塊だったと思う。特に明確な理由もなかったけど、なんとなく勝ちたかった。すべてのことに勝っていたくて、ひたすら勉強していたし、ひたすら部活に励んでいた。成績上位層の友人と共に、なんとなく選民思想のようなモノを抱いて学校を馬鹿にすることに全力だったし、なんとなく一緒に教師に反抗していたし、部活中はとにかく厄介なメンバーと思われるであろうほどの意気込みを発揮していた。結果的には学年1位も取ったし、部活のエースでもあった。嬉しかったとは思うのだけど、前を見続けていた僕は、アスペばりの態度で「フン…そんなもの」と一層の高みを目指していた記憶がある。
  その割には、なぜそんなに勝ちたいのか、自分が何になりたいのかなんてことは考えずに、自分でもわからずに、ただひたすら熱を発して、あらゆる結果の前に絶望と歓喜を繰り返していた日々だったと思う。
  いま思えば「青かったなぁ」と思えるし、あれらの日々は小学校の頃から悩まされていた強迫性の影響なのだろうなとも分析できる。けれどあの時の僕はただ熱くて、客観的に自分は何がしたいのかなんてことは微塵も見えていなかっただろう。とにかく目の前の熱に素直で、振り回されていた。

 

  だからこそ僕は海がきこえるに魅せられたし懐かしかった。この話の核をひとことで言えば、「中高ぐらいの時代に発せられる活力」に尽きるのである。期間限定のエネルギー、生気、意気。
  友人と修学旅行の一本化に反対して、友人に呼ばれればバイト中でも飛び出して、なにがなんでも父親に会いに行きたいがためにセコく金を掻き集めて、うまく工作して東京に飛び立って、なんとなく見栄を張ろうとして、クラスメイトに反抗して、殴って叩いて…etc。
  とにかく若い活力と熱が幾重にも重なって、つよいつよい激情に圧倒される。魅せられる。一見地味なのだけど、そこには煌びやかな精力が詰まっている。
  それが海がきこえるの特徴で、僕の青春時代に重なるのである。

 

 

  また、彼等はそのあまりに膨大な熱量が邪魔をするせいなのか、自分自身の感情や思考をよくわかっていない。本作のキャラクター達は「すごく論理的に一貫した何か」や「建設的な思考」はあんまりない。主人公は修学旅行一本化に反対しているのに、はっきりとその理由を書けないシーンも、ヒロインが東京の友人に見栄を張ったものの馬鹿馬鹿しくなってしまうシーンも印象的だ。

  話題を関連づけると、本作の疑問に「どうして主人公はヒロインを好きになったか」「どうしてヒロインは主人公を好きになったか」というモノがあるのだが、それが明確に語られないことが最大の魅力だとも思う。「なんとなくすごく我武者羅に生きていたら、よくわからないけれどこういう精神が芽生えていました」「たぶん好きなんだとは思うけど、色々な感情のノイズが多すぎて、はっきりとは気付けない」、こういうのを描きたかったのだと思う。
つまり、何故かよくわからない激情だとか、
「なんとなく」の割には強すぎる意思に突き動かされている青春が描写されていて、こんなところも僕らしかった。


 

  それから避けては通れない本作の特徴は、「大学生になった彼等が高校時代の若かったあの頃を思い出す」構成で描かれている点であり、大人になった今だからこそ、客観的にあの頃を見つめて、自分の感情を認知するようになっている。「あぁ、''やっぱり''僕は好きなんや」このラストのセリフ、とてもよくないですか?一端落ち着いた上で「やっぱり」と再認識しているのですよ…。


  若くて活力に溢れていたあの頃と、それを客観的に振り返ることのできる今。
この対比は本作の同窓会シーンが描かんとしている部分であり、
僕自身も今となっては恥ずかしいあの頃を、「それでもいい日々だったなぁ」と振り返っていて落ち着いている。投影投影。

 

  ところで「耳をすませば」は本作をみて不満バリバリだった宮崎駿が、アンチテーゼとして作った作品である。で、明確に本作と耳すばを対比できる点のひとつは、「彼等が青春の中にいるか外にいるか」だ。耳すばも本作同様に、青春時代の活力や熱量は印象的(しかしデフォルメが過ぎる・非現実的なので好きでも懐かしくもないが)で、おそらく叶わないであろう「結婚」なんて言葉まで出てくるのだが、
  彼女たちは若くして「結婚」を叫ぶぐらいの熱い熱い青春の「中」にいる。
海がきこえるのキャラクターは、リアルタイムでは青春の「外」にいる。対極的だ。

  なのでまぁ、中にいるときにしかみえない、客観的にはみれない盲目的な希望だけを残して終わるところが、耳すばのフィクションらしい部分だ。馬鹿らしい部分でもあるも思う。

 

  まぁそれはさておき、まとめれば、燃え上がる活力を前面に、すべてに勝ちたくて、でもどうして勝ちたいのか・自分の感情の本質はなんなのか全くわからずに奮闘していた過去の僕。そんな僕を、大人になれたのかもしれない今の僕が、あの頃はなんとなくいいものだったかもな振り返る感覚。それが描かれていた作品こそ本作であり、わかる、わかるよ…とつよく共感した。だから好きだ。

 

  あの頃は必死で、荒ぶっていて、まるで強い海の波がザーザー鳴るように感情は揺れていて、その揺れは明確な理由を隠していたような気がする。
  落ち着いた今、たまーにふと過去を思い出すと、激しく揺れて音を立てるあの頃の感情が…波の…海の音が聞こえてくる気がするのである。