おもひでぽろぽろ 考察

 

ですます調の方が本作に合っている気がしますね。敬体文でいきます。

 

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  女性のためにあるような映画ですよね。

  まぁ色々と主旨・主題はあるのですけど、端的に「社会で構築される”女子性”の影響を受けた女性」がそういった生き様からの脱却を果たす側面が強いように見受けられます。

なので、本作の特徴をフレーズで捉えると、「成長」でも「子供と大人の差異」でもなくて、「女性と社会」なのだと思いますね。

 

 さて、まずは本作における「ゴール」とは何だったのかを捉えていきましょう。それは結構わかりやすく、「いい子であることよって作り上げてきた日常からの脱却」という形で現れています。

 というのも、

私 子供の頃からそんなだったの

ただ いい子ぶってただけ

今もそう

 というセリフにあるように、子供の頃から、タエ子はなんとなく・流れのように「いい子」として生きてきて、それに対して僅かな疑問も抱いていなかったわけです。しかし、結婚を提案される一件でこの「いい子」性を見透かされ、「はて自分の今までの行動とは・人生とは」と暗雲立ち込める空の下、振り返ります。そういった過程を経て、最後に嘘偽りのない「本心」「欲」を基軸にした決断、「作られた自分」という表層的なパッケージに留まらない決断をするのです。つまりは、無意識的に「いい子」の自分を演じる中で作り出してきた現実の日々を捨てて、自分の意思を露にした上でちょっと先の未来を選択することがゴールなわけです。

 

 では、この「いい子」性はどのようにして現れてしまったものなのでしょう。この点を考慮する上で、重要となってくる要素が本作の「女子性」です。この記事での「女子性」というのは、「クラスにしろ会社にしろ、男性を含めた人が集まる社会のなかで女性が発することになるであろうキャラクター性」のことを指したいと思います。つまり、ジェンダー的な先入観の強い、旧時代的な思想が元となりますが、簡単に言えば「女子は男子より明るい」みたいなモノのことです。

 

 この作品において、「集団における女子性」が特に発揮されるのは、子供編でしょう。小学5年時点における男女差が特徴的であり、これは原作者が当時を生きた女性だからなのでしょう)当時の男女関係を恐らくリアルに描くことに成功しています。

 単純な特徴としては、女子が男子よりも断然大人びていますよね。小学5年生という設定が絶妙でして、女子が明らかに男子の発達を上回る時期なわけです。精神的な意において、「本来は女子は1学年上の男子と同級にすべき」みたいな論もありますよね。こうした中で、「これだから男子は…」と女子は溜息を吐くわけです。つまりは女子の方が「大人」に近いわけですよ。

 本作を見ればすぐにわかります。5年生の男子は非常にくだらないんですよ、「廊下を走る議題」のシーンなんかは特に象徴的で、論理的思考力を持った谷サンと、騒ぐ男子たち。そういった構図がわかりやすく表れている。恋愛という意味でも、はやく発達する女子は、やたらと興味深々なわけで。広田くんを茶化す存在としての「男子」は一貫して描かれないわけです。

 また、当然肉体面における差も生じます。「第二児性徴」は女子のほうが早いことが一般的ですね。女子が女性にと分化をはじめる分かりやすい時期としての「小5」という観点があって、女子は生理がはじまる。簡単にいえば精神的にも肉体的にも女子は男子に比べ断然「大人」なわけです。掃除をしない男子に対して「ちょっと男子ー」と怒りたてるような文化の背景には、こういった流れがありますよね。

 それは同時に、大人からみれば、「まだまだ子供で、イタズラもすればクダラナイことで騒ぎ出すような男子」と「大人らしい弁えを一応身に着けた女子」として映る。つまり表面的に捉えれば、女子の方が理解のある「いい子」として映るわけです。女子はこうした「いい子」たる枠を早い時期に作り出して、なんとなくその枠組みのなかで、「いいふうに思われて」「社交的な存在として」育っていく。これは大まかなで曖昧なイメージ像を抜き出したにすぎない、なんとも雑な「女性像」ですし、例外を挙げれば尽きないのですけど、一応これがおもひでぽろぽろに垣間見える「女子性」です。それは、

仕事でも遊びでも

私たちは男の子たちより明るく

元気がよかった

私たちは飛び立ったつもりになっていた

しかし今 思えば

あれはただ無我夢中で羽を

動かしていただけだったのかもしれない

というセリフに象徴されています。このセリフ、一人称は「私」でもよかったと思うのですね。それでもあえて、「私たち」と表現したのです。さらにいえば、「仕事も」とあることから、小学5年生の頃のメンバーを指して「私たち」と表現したのではなく、タエ子が小学校~高校、社会人として出会ってきた女子たちを含めて「私たち」と表現した、と考えるのが妥当でしょう。つまりは、冒頭におけるタエ子の上司とのやり取りに象徴されるように、「なんとなく私たち女性は男子よりも明るくて、(飛び立ったつもりになるように)大人になった気でいた」といった意味と捉えることができます。少し過大に解釈してみましょう。「明るく」というのは、冒頭のように、上司の冗談もそれなりに受け流せるような、男子よりも「気の利いた性質」、悪くいえば「大人にとって受けのいい性質」を含んでおり、つまり表面的には「いい子」な訳です。「いい子」であったからこそ、大人として羽ばたいた気になれていたわけですね。

  その上で、「しかしそれは本当に(蝶になって)羽ばたいた(つまりは「大人」になった)のだろうか。もしかすれば、ただ大人になった気がしているだけで、羽をバタバタ動かしていただけなのかもしれない」という心理に陥るわけです。

 

 作品タイトルも誰のマンガだったかも思い出せないのですけど、「男の子はわからない」と感じる女性の心理が描かれていたものがありました。「男の子は、適当なように見えて、知らないうちに勉強に一心になって、いつのまにか高みにいて、はるか先を進んでる」。こういった内容だった気がしますね。これは、おもひでぽろぽろの男女間の成長差を補完し得ると思いますね。タエ子は自身が吐露するように、別にいまの仕事が好きなわけでもなくて「なんとなく」就いた職で。特に明確な目的もなく、それでも上司には冒頭でも好意的な態度を取っていて、一応の順調さがあって、「いい子」で。一方トシオは、会社をやめて、やりたいコトを始めていて、目的も意思もあるわけです。こういった背景も含めて、「私たちはただ羽をバタバタ動かしていただけなのかもしれない」というセリフを捉えてみると面白いですね。

 

  さてタエ子が「いい子」たる所以として、本作の女子性・女性観が挙げられる、というのが上記の話です。しかし、それだけでなくタエ子が「いい子」に捉われた原因としては「家族関係」も挙げられるでしょう。

 

  というのも、家族関係においても本作は昭和の関係性をよく汲み取っていますよね。家父長で、母は厳しく、姉妹間の権力差も激しく…と。こうした構造における家族社会のなかで、タエ子は末っ子ということもあり、様々な「我慢」を強いられます。こうした要素が、タエ子が女子社会においても人一倍「いい子」であった、「いい子」であろうとした要因でしょう。

 

  そのような呪縛を振り返って、つまりは「実はあの頃からなにも変わらず、羽ばたいていない」リアルと直面して、これからの人生を考えた結果、「トシオの元に戻る」という決断を下すのです。それは、何からの影響も受けない、シンプルで、自分の意思を尊重した選択なのです。

 子供の頃から、学校であれ家であれ、自身の意思を無意識的に控え、「いい子」で在り続けたタエ子。大人になれどその性質からの脱却はできず、本心が何処にあるのかもわからずに歩んできたわけです。無意識下での「いい子」の選択は、「自由」を犠牲にしたものでした。タエ子の日常は、「いい子」である自分が「いい子」としての決定に基づいて作り出した日常に過ぎないのです。だからこそ、特に仕事において、何となくは充実していたけれど、一方で生き甲斐を感じられることはなかったのでしょう。このような状況を跳ね除けて下した決断こそが、「トシオに会うために田舎に戻る」といったものになるわけです。このまま東京で暮らしても、恐らく今までと何ら変わらぬ「いい子」性の枠の中で、なんとなく羽をバタバタと動かしながら生活をすることでしょう。そういった未来を自身の意思で(電車の描写のごとく)乗り換える決断が到達点なのです。過去の自分との別れですね。

  簡潔に表現すれば、「いい子」であることを無意識的に演じるうちに「自由」を犠牲にしてきた主人公・タエ子が、その「いい子としての意思で''なんとなく''作り上げてきた日常」に別れを告げる話なのではないでしょうか。

 

  さて以上がラストシーンまでの、タエ子自身の人生観と絡めた考察ですね。昭和の男女観として、特に女性はこういったイメージだよねという漠然とした「女子性」があり(実際にはそれが真実であるにせよないにせよ)、それを1人のキャラクターとして擬人化して描いた作品がおもひでぽろぽろです。そして、その性質へのある意味皮肉的ともいえる批判(ただ羽をバタバタさせているだけ)と脱却を描き切ったというのが個人的な解釈ですね。

  まぁそれはそうと、これはナウシカでもなく、キキでもなく、サンでもない。女子社会という「多数」における1人に過ぎなかったタエ子だからこそ紡げるであろうお話であり、同時に、「あの頃を生きたマジョリティーのあなた」へ向けられている作品ですね。耳をすませばよりも「カントリー・ロード」を感じるのではないかなと思います。