レストー夫人 考察的な

三島さん、「人間」のことが好きなんだろうなぁと。

 

 端的にまとめると、我々は衣装係の石上くんいうところの「模型」であり、また同時に「生きた人間」である、というお話。

 

・模型とは

 社会において我々は、あらゆる役を演じなくてはならない。たとえば「姉」という立場になったのなら、「姉」という「役柄」に添った行動を取ることを無意識的に強要される。「学級委員」でも「クラスのムードメーカー」でもなんでもいい。我々は何かしらの「役柄」を演じているといった側面がある。更には、この「役柄」によって、性格や感性が定められていくことがあるだろう。

 

 もしかしたら、本人の持つ本質・自然な姿は、こういった役柄とは少し異なった姿であるのかもしれない。だが、無意識的にも、社会を生きる上での目印(作中の表現を使うと「目もり」)として存在している、こうした「役柄」に自らを収めるように行動し、そして実際にその性質へと収まっていく。

 つまり我々は、何かしらの目印を演じているだけの模型に過ぎないのである。

 

 志野さんという人物は、特殊な教育によって、あらゆる物語に登場するような「女の子らしい女の子」としてしか生きられない。彼女の自然な本質は消失し、絵本にでてくような女の子こそが彼女の生きる上での「目印」なのである。そんな志野さんを「いろんな女の子の寄せ集めの模型」だと表現する石上くん。

 

・生きた人間

 我々は模型。何らかの目印に合わせ、自然な本質を変形させることで行動している側面がある。そのため、我々が抱く感情や趣向といったモノも、もしかしたら初めから決められていたような、プログラムされているような、構造の結果生まれるような…あまりにつまらないモノかもしれない。同じ「役」のひとと何ら差別化できないのかもしれないし、原初的な本質とは異なった歪なモノなのかもしれない。

 しかし、それがどんなに規定されたモノであったとしても、我々が抱く感情は(「感じる主体」にとっては)何の偽りもないホンモノであって、他に代替することのできない、唯一無二の意識だ。とてもあたたかくて、脈を打っていて、生気に溢れている。感じることの美。想うことの美。

 そして、感情を抱くこと自体が「生きた人間」としての証左である。たとえ作られた個であれ、不自然な姿であれ、我々は日々の生活で数え切れないほどの感情とともに、色鮮やかなリアルを送る人間なのだ。

 

 

 ただ物語の寄せあつめ的な女の子を演じるだけの「模型」であったはずの志野さんが、あらゆる感情を抱いていたこと。志野さんは模型であり、同時に正真正銘の生きた「女の子」であった。

 恐らく我々も、何かを演じているに過ぎないのだろうし、なにかの模型に過ぎないのだろう。それでも我々は、正真正銘の「人間」なのである。

 

「でもある時、なぜか意味の見えない部品があった。正確にはひとつの部品に、2つの意味が見えるんだ。何日もかけてやっとそれが完成した時、すごくびっくりしたよ。それはロボットと飛行機の2つの形を持つ模型だったんだ。

 レストー夫人も同じだったよ。ひとつひとつの部品に2つの意味があるんだ。レストー夫人はいろんな女の子の寄せ集めの怪獣なんかじゃなくて、もうひとつの形があったんだよ。女の子だよ。」

 

そして、今日も、劇は続く。(たぶん現実世界で)